大内輝弘の野望 その4(戦国立志伝)
その4です。
遂に毛利軍が大内輝弘の居城・杵築城に侵攻を開始。毛利方は国司元相隊2900と南方就正隊3200の計6100。対する杵築城の兵は3700ほど。
杵築城下でまとめて迎え撃つのは兵力差もあり困難、そこで城の近くにある日出の地に設置された陣所で各個撃破を狙います。
国司隊撤退後すぐに南方隊が到着、城門は全て破られたため真正面から射撃の応酬が開始。高所からの攻撃が効いたのか軍配は大内方に上がりました。
一連の戦果が認められたのか、宗麟から与力武将を付けてもらえることに。領主時代金や資源を何度も融通した高橋紹運が配下に加わりました。
68年7月、龍造寺軍により筑前の秋月家が滅亡。これで同家の支配圏は肥前・筑前・筑後の3国に及ぶことに。
翌8月、勢いに乗った龍造寺軍は毛利家の拠点である鷹取山城に侵攻、両家の戦端が開かれました。
同時期に島津軍が阿蘇家の隈本城に攻め込みます。守るのは阿蘇家の名将・甲斐宗運ですが10倍近い兵力差はいかんともし難い模様。
そして大友軍は8月に6500程の兵で再度中津城に攻め込みますが、毛利軍によりあえなく撃退。
率直に言って、このまま大友家に身を置いていてもいずれ訪れる滅びの運命を共にするだけです。大内家再興の宿願を達成するため、輝弘は大友家からの寝返りを決意しました。
その前に残りの発言力で吉岡妙林をNTR配下に加えます。
そして1568年11月、遂に...