生くれば生きとく。

大学生は単位を取ることが本にて候

大内輝弘の野望 その4(戦国立志伝)

その4です。

遂に毛利軍が大内輝弘の居城・杵築城に侵攻を開始。毛利方は国司元相隊2900と南方就正隊3200の計6100。対する杵築城の兵は3700ほど。

f:id:sadayori1495:20180909224052j:plain

杵築城下でまとめて迎え撃つのは兵力差もあり困難、そこで城の近くにある日出の地に設置された陣所で各個撃破を狙います。

f:id:sadayori1495:20180910183449j:plain

f:id:sadayori1495:20180910195855j:plain

f:id:sadayori1495:20180910195904j:plain

国司隊は無事撃退したが、陣所の耐久は大幅に低下した。

国司隊撤退後すぐに南方隊が到着、城門は全て破られたため真正面から射撃の応酬が開始。高所からの攻撃が効いたのか軍配は大内方に上がりました。

f:id:sadayori1495:20180910200207j:plain

f:id:sadayori1495:20180910200258j:plain

f:id:sadayori1495:20180910200238j:plain

全ての城門を破られたため最後の拠点の前で激しい射撃戦。

一連の戦果が認められたのか、宗麟から与力武将を付けてもらえることに。領主時代金や資源を何度も融通した高橋紹運が配下に加わりました。

f:id:sadayori1495:20180910201008j:plain

f:id:sadayori1495:20180910201015j:plain

まだ若き大友家屈指の猛将を配下に。

68年7月、龍造寺軍により筑前の秋月家が滅亡。これで同家の支配圏は肥前筑前筑後の3国に及ぶことに。

f:id:sadayori1495:20180910201748j:plain

翌8月、勢いに乗った龍造寺軍は毛利家の拠点である鷹取山城に侵攻、両家の戦端が開かれました。

f:id:sadayori1495:20180910202035j:plain

同時期に島津軍が阿蘇家の隈本城に攻め込みます。守るのは阿蘇家の名将・甲斐宗運ですが10倍近い兵力差はいかんともし難い模様。

f:id:sadayori1495:20180910202355j:plain

甲斐宗運も大志の顔グラ。

そして大友軍は8月に6500程の兵で再度中津城に攻め込みますが、毛利軍によりあえなく撃退。

f:id:sadayori1495:20180910203212j:plain

f:id:sadayori1495:20180910202930j:plain

連敗に続く連敗で大友家は疲弊している。

f:id:sadayori1495:20180910204238j:plain

度重なる侵略によって領土を切り取られていき、大友家は豊後の小大名にまで転落してしまった。

率直に言って、このまま大友家に身を置いていてもいずれ訪れる滅びの運命を共にするだけです。大内家再興の宿願を達成するため、輝弘は大友家からの寝返りを決意しました。

その前に残りの発言力で吉岡妙林をNTR配下に加えます。

f:id:sadayori1495:20180910203417j:plain

f:id:sadayori1495:20180910203424j:plain

吉岡鑑興の妻・妙林は史実では亡き夫に代わり居城から島津軍を何度も撃退した女傑。

そして1568年11月、遂に...

f:id:sadayori1495:20180910204457j:plain

f:id:sadayori1495:20180910204508j:plain

f:id:sadayori1495:20180910204517j:plain

野望の実現のため輝弘は仇敵・毛利元就の臣下となった。