大内輝弘の野望 その5(戦国立志伝)
その5です。
1568年11月、凋落を続ける大友家を輝弘は遂に見限りました。新たな主君は中国地方の雄、毛利元就。大内家を滅亡に追い込んだ、輝弘からすればいわば宿敵です。
再び部将に復帰するためには主命を達成し、勲功を貯めなければいけません。ところが輝弘に与えられた府内館攻略の主命は前準備(城下や国人衆への襲撃など)に金銭と兵力を掛けなければいけないため、ローリスクに勲功を貯めるには別の方法を取らなければいけません。例えば敵勢力の、それも武家を率いる程度に有力な武将の引き抜きとか。しかし城主クラスで忠誠低い武将なんているのだろうか...
いました。
68年末より大友家は高森城攻略のため兵を派遣するものの、戦況は芳しくない様子。府内館の部隊が出払っている今が好機ということで、城下への襲撃を開始。
69年3月、準備が整った毛利軍は大友家の本拠・府内館に侵攻を開始。大内輝弘の名代として高橋紹運はその先鋒を任されます。
他部隊が到着するより前に、高橋隊は独力で府内館を攻略。元就から勲功を賜ります。
69年4月、昨年8月から続く攻防戦の末龍造寺家が鷹取山城を陥落させました。
6月、府内館攻略が評価されたのか輝弘は再び部将に昇格。
大友家の拠点も残り2城となった7月、輝弘は独自の軍事行動に出ます。目標は日向国の縣城。ここは島津家の領土の目と鼻の先であり、毛利家が豊後の岡城を攻めた場合高確率で島津軍が来襲することが考えられます。先に岡城が落城した場合、大友家臣が縣城に移りそれを島津軍が攻略、そのまま島津家の家臣になってしまう状況は何としても避けたいところ。
9月、孤立して援軍も望めない縣城はあっさりと降伏。一方で大友家最後の拠点岡城では、毛利軍と大友の援軍に来た龍造寺軍との間で激しい戦闘が開始されました。輝弘も後詰に向かいます。
12月、遂に浦上家の宇喜多直家の叛心が100に到達。すぐに浦上領内で謀反を起こすよう指令を出します。
宇喜多直家は岡山城と下津井城の2城、加えて配下に恐らく赤松家から寝返ってきた黒田官兵衛まで引き連れて毛利家へ参上。さらに天霧城へ向けて進軍していた浦上軍は直家らの突然の裏切りにより同士討ちを開始、そこに丁度良いタイミングで毛利軍の吉川元春隊が加勢して浦上軍は壊滅。浦上家からしたら踏んだり蹴ったりである。
大内輝弘の野望 その4(戦国立志伝)
その4です。
遂に毛利軍が大内輝弘の居城・杵築城に侵攻を開始。毛利方は国司元相隊2900と南方就正隊3200の計6100。対する杵築城の兵は3700ほど。
杵築城下でまとめて迎え撃つのは兵力差もあり困難、そこで城の近くにある日出の地に設置された陣所で各個撃破を狙います。
国司隊撤退後すぐに南方隊が到着、城門は全て破られたため真正面から射撃の応酬が開始。高所からの攻撃が効いたのか軍配は大内方に上がりました。
一連の戦果が認められたのか、宗麟から与力武将を付けてもらえることに。領主時代金や資源を何度も融通した高橋紹運が配下に加わりました。
68年7月、龍造寺軍により筑前の秋月家が滅亡。これで同家の支配圏は肥前・筑前・筑後の3国に及ぶことに。
翌8月、勢いに乗った龍造寺軍は毛利家の拠点である鷹取山城に侵攻、両家の戦端が開かれました。
同時期に島津軍が阿蘇家の隈本城に攻め込みます。守るのは阿蘇家の名将・甲斐宗運ですが10倍近い兵力差はいかんともし難い模様。
そして大友軍は8月に6500程の兵で再度中津城に攻め込みますが、毛利軍によりあえなく撃退。
率直に言って、このまま大友家に身を置いていてもいずれ訪れる滅びの運命を共にするだけです。大内家再興の宿願を達成するため、輝弘は大友家からの寝返りを決意しました。
その前に残りの発言力で吉岡妙林をNTR配下に加えます。
そして1568年11月、遂に...
大内輝弘の野望 その3(戦国立志伝)
その3です。
まずは状況確認から。現在大友家は多方面作戦を展開しており、龍造寺家を始めとする5ヶ国と断絶状態になっています。加えて大国の毛利・島津家とは同盟関係になく、外交状況は劣悪だと言えるでしょう。本城3つに優秀な家臣団を揃えた強豪ではあるものの、決して油断は出来ません。
1566年9月、当主隆信自ら率いる龍造寺軍は柳川城を大軍で包囲。柳川城は筑後の本城であり、大友家の重要拠点の一つです。ここを龍造寺家に取られると非常に不利になります。また龍造寺軍は別動隊を岩屋城へ差し向けています。
66年10月、ほどなくして守将の蒲池鑑盛は降伏。筑後は龍造寺家の支配下に置かれました。
12月、これを好機と見た日向の伊東家が縣城に侵攻。
これに対し大友家は67年1月、伊東家と対立する島津家と同盟を締結。
北九州戦線が小康状態に入ったので輝弘は高嶺城下の襲撃に向かいます。兵数差もあり市川経好隊を難なく撃破。
67年4月、再び龍造寺軍が岩屋城へ侵攻を開始。同時期に肥後の阿蘇家も岡城に進軍。さらに関門海峡を渡って毛利軍が小倉城を包囲、周防からの別動隊が中津城へ迫ります。
立花道雪ら率いる大友軍主力は阿蘇軍に当たっていたため毛利軍は大友方の城を次々と攻略、6月には小倉・中津両城が陥落、翌7月には鷹取山城も降伏、中津城を攻略した部隊が豊前の本城・城井谷城に迫る有様です。輝弘は毛利軍が占領したばかりで手薄の中津城に向かうものの、城井谷城攻略へ向かった部隊と小倉で待機していた毛利軍が急行、城を落とすことは出来ませんでした。
8月には伊予の大友領に今まで苦汁を飲まされ続けた河野家と一条家が侵攻を開始。また頑強に抵抗した筑前岩屋城が遂に落城。
11月までに輝弘が攻略した伊予の曾根城と、豊前の城井谷城・日隈城が降伏。これで大友家は筑前・豊前の拠点を全て失いました。
12月、ようやく準備の整った大友軍は周防高嶺城へ向け進軍を開始。それどころじゃないだろ...(´・ω・`)
大友軍諸将は奮戦したものの、周防からの援軍が加わった毛利方との兵力差は覆せず全軍撤退。
そして3月、遂に毛利軍が輝弘の居城、杵築城攻略に向けて動きだします。
~おまけ~
大内輝弘の野望 その2(戦国立志伝)
その2です。
城代に出世した輝弘ですが、その赴任先はなんと伊予国の大洲城。大友家の伊予侵攻の橋頭保的な城で、周囲には同盟関係のない河野、西園寺、そして毛利家が存在します。耐久は支城にしては多めの3000ですが、豊予海峡の向こうの九州からの援軍はすぐにはやってこれないため防衛は困難。宗麟は東隣にある河野家の領土、曾根城を攻略したいようです。
そうしている内に1566年4月、本国豊後から曾根城攻略に向けて大友軍が出陣。
が、伊予国に上陸した大友軍を道中で隣接する西園寺家が妨害。西園寺軍撃退の為輝弘にも召集が掛かります。
輝弘は手勢2600を率いて援軍に向かいますが、既に交戦を開始していた吉弘鑑理隊によって西園寺軍は壊滅寸前にまで追い込まれており、輝弘が交戦しようとした時には西園寺実充隊は撤退を始めていました。
1566年7月、無事に曾根城までたどり着いた大友軍は河野軍と交戦、再び輝弘に攻城の加勢に来るよう召集が掛かりました。
輝弘は兵3100を率いて参陣、事前に行った破壊工作が効いており城門の幾つかは破壊された状態で会戦。一路天守を目指します。
先走りしすぎて城門の守備隊が天守に戻ってきてしまい挟撃されますが、後から来た他の部隊の助勢によって事なきを得ます。
大内隊は本丸前の最後の城門を突破しますが、待ち構えていた大野直昌隊の攻撃に耐え切れず撤退。しかし後詰の佐伯惟教隊によって大野隊は壊滅、曾根城は落城しました。
今回の戦果により輝弘は部将に昇進。
そして66年9月、遂に...
場所は豊後国杵築城。豊後水道を隔てて周防・伊予に面しており、また大友家の現在の主戦場である筑前にもほど近い。内政値は周辺支城に比べると若干低いですが元いた大洲城よりは高いと思われます。
そして宗麟から下された主命は、なんと大内家の本拠があった周防高嶺城の攻略でした。
大内輝弘の野望 その1(戦国立志伝)
初記事として信長の野望創造・戦国立志伝のプレイ日記を始めてみようと思います。
記念すべき第一回目は、西国の雄・大内氏の一族の大内輝弘です。
大内氏全盛を築き上げた大内義興の弟・大内高弘の息子に当たる人物です。義隆からすれば従兄弟ですね。
義興が当主だった頃、大内家重臣の杉武明という人が豊後の大友家と結託して義興を追放しようと謀反を企てますが、その際新たな当主として輝弘の父、高弘が担ぎ上げられました。しかし計画は事前に知られてしまい、武明は討伐され、身の危険を感じた高弘も大友家の下に亡命。そして父の亡命先の豊後で輝弘は産まれました。そして月日は流れ元服後輝弘は客将として大友家に仕えていたらしいです。名家の出なのですが大友家中での扱いはあまり良くなかったそうな。
彼の名が有名になるのは大内家滅亡後の1569年から始まった、毛利家と大友家による旧大内領である北九州争奪戦において。毛利軍の攻勢の前に押されていた大友家は北九州の旧主であった大内一族である輝弘に目を付けました。大友宗麟に命じられた輝弘は大友軍とともに周防へ上陸、大内旧臣を始めとした毛利に不満を持つ諸氏はこれに呼応し反乱を起こします(大内輝弘の乱)。輝弘は大内氏の拠点・山口を攻めますが毛利方は頑強に抵抗し戦線は膠着、そうこうしている内に九州攻めをしていた毛利軍主力が引き返してきたため輝弘は海路から逃亡を画策しますが、度重なる毛利軍の攻勢に耐え切れず自刃しました。享年50。
以上が大内輝弘の概要ですが、こんなマイナー武将だとイベント作るのめんどくさかったのかゲームにも登場しないので自分で作りました。
ゲームの設定は以下の通り。
シナリオ:1562年2月 織徳同盟
難易度:超級
姫武将モード:なし
寿命:長寿(史実の輝弘は69年に死亡するためゲームクリアが困難なので)武将作成の際もう少し寿命長くしたからこの設定要らなかった
目標:独立大名として周防・長門二国の城を全て支配する
というわけでゲームスタート。家中役職は最低の郡代からスタートなので、城は持っておらず自分の領地を開発するところから始まります。
なんとこの土地には山賊がいる模様。初めてこのイベント遭遇した
支配者であるお侍さまの威厳を示すために山賊討伐を開始。
敗北。
仕方ないので土地の東半分は山賊さんに明け渡して任せて西を開発することに。
あまりこのシナリオでは遊ばないのですが存外に歴史イベントが多くて驚きました。
そうこうしているうちに1565年6月、ついに宗麟から城代に任命を受けます。
輝弘は無事、大内家を再興することができるのでしょうか。