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大内輝弘の野望 その2(戦国立志伝)

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周囲は敵だらけ。九州からの援軍も時間が掛かる。

その2です。

城代に出世した輝弘ですが、その赴任先はなんと伊予国大洲城。大友家の伊予侵攻の橋頭保的な城で、周囲には同盟関係のない河野、西園寺、そして毛利家が存在します。耐久は支城にしては多めの3000ですが、豊予海峡の向こうの九州からの援軍はすぐにはやってこれないため防衛は困難。宗麟は東隣にある河野家の領土、曾根城を攻略したいようです。

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しばらく暇なので領地経営に専念。山口を思いつつ公家町+公家屋敷に建設をシフト。

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紀伊の南端に追いやられている弱小大名の河内畠山家が三好家のどさくさに紛れて岸和田城を占拠。かなりのレアケース。

 

そうしている内に1566年4月、本国豊後から曾根城攻略に向けて大友軍が出陣。

が、伊予国に上陸した大友軍を道中で隣接する西園寺家が妨害。西園寺軍撃退の為輝弘にも召集が掛かります。

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当主自らが出陣。宗麟は本気のようだ。

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大友軍上陸に気付いた河野家も即座に曾根城へ部隊を派遣。

輝弘は手勢2600を率いて援軍に向かいますが、既に交戦を開始していた吉弘鑑理隊によって西園寺軍は壊滅寸前にまで追い込まれており、輝弘が交戦しようとした時には西園寺実充隊は撤退を始めていました。

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援軍に来たが遅かった。

 

1566年7月、無事に曾根城までたどり着いた大友軍は河野軍と交戦、再び輝弘に攻城の加勢に来るよう召集が掛かりました。
輝弘は兵3100を率いて参陣、事前に行った破壊工作が効いており城門の幾つかは破壊された状態で会戦。一路天守を目指します。

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敵将忽那通著はなかなかの強敵。

先走りしすぎて城門の守備隊が天守に戻ってきてしまい挟撃されますが、後から来た他の部隊の助勢によって事なきを得ます。

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大内隊は本丸前の最後の城門を突破しますが、待ち構えていた大野直昌隊の攻撃に耐え切れず撤退。しかし後詰の佐伯惟教隊によって大野隊は壊滅、曾根城は落城しました。

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本丸に乗り込むことは叶わなかったが、十分な戦果だろう。

 

今回の戦果により輝弘は部将に昇進。

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宗麟もこの結果にご満悦のようだ。

そして66年9月、遂に...

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ついに一城の城主に。

場所は豊後国杵築城。豊後水道を隔てて周防・伊予に面しており、また大友家の現在の主戦場である筑前にもほど近い。内政値は周辺支城に比べると若干低いですが元いた大洲城よりは高いと思われます。

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九州に戻ってきた。杵築城は陸路にも海路にも便利な重要拠点であり、主君からは期待されているようだ。

そして宗麟から下された主命は、なんと大内家の本拠があった周防高嶺城の攻略でした。

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遂に大内氏の拠点であった周防へ侵攻。果たして無事攻略できるだろうか?